2012年6月4日月曜日

【海難記】 Wrecked On The Sea


ピテカントロプスは「鹿鳴館」だった!?〜宮沢章夫の東大「80年代」講義

白夜書房で知人の編集者E君がつくった宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』ISBN:486191163Xをパラパラと読み始めた。「80年代」とはいっても、この本の考察の対象はおもに80年代の前半であり、とくに当時の東京の空気を象徴する、ピテカントロプス・エレクトスという「日本で最初のクラブ」に焦点が当てられている。

この本で宮沢章夫は、大塚英志の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』ISBN:4061497030が描いているような「おたくの時代」としての「80年代」とは別の「80年代」があったということを、当時のピテカントロプスというクラブの「かっこよさ」がうまく伝えられない、ということをなんども繰り返すことで、逆説的に伝えようとしている。

2012年6月2日土曜日

クローン人間の倫理


クローン人間の倫理

     クローン人間の倫理性

     ―Ethics of Human Cloning

                    上村 芳郎 (UEMURA,Yoshiro)

 昨年(1997)の大きな話題の一つに、イギリスで作られたクローン羊ドリーがある。スコットランドのロスリン研究所で、雌の羊(A)の体細胞から取った遺伝子を、羊(B)の未受精卵に移植し、これを羊(C)の子宮で代理出産させることによって、元の羊(A)と同じ遺伝子を持った別の羊を造り出すことに成功したのである。(1) この成功の意味するものは、生殖細胞(精子と卵子)以外の細胞からでも、つまり、体の一部の細胞や冷凍保存された細胞から、同じ遺伝子を持つ元の個体を再生することも不可能ではなくなった、ということである。

 これに続いてアメリカでも、羊のクローンと猿のクローン作りが成功し、更に商業ベースで牛のクローン作りが着手されたと報じられた。(2) また今年になって日本でも、石川県畜産総合センターで双子のクローン牛「のと」「かが」が誕生したのを皮切りに、各地でクローン牛が次々に誕生した。(3)

 羊で可能なことは、人間でも可能なはずである。クローン羊の誕生はクローン人間の誕生の可能性を予告するものであり、社会的に広範な危惧を呼び起こした。実際に、アメリカのある科学者(Richard Seed博士)は、施設と費用が準備できればすぐにでも人間のクローン赤ちゃんを作る、と述べ、物議を醸し出した。(4)

 こうした一連の出来事は、昨年の「クローン」を廻る話題として、多くの人の記憶に新しいだろう。しかし、表面のこうした出来事に隠れて目立たないが、もう一つの別の流れがあった。クローン羊誕生のニュースに続いてすぐ、イギリス政府はロスリン研究所への助成金の打ち切りを表明し、クリントン大統領は諮問委員会を招集した。(5) そしてこの委員会の報告に基づいて、六月にクローン人間の研究を禁止する法案を連邦議会に提出した。また六月の欧州首脳会議では、クローン人間禁止の協定を結ぶことが採択され、またイタリアやフランスでも人間の胚を使った研究の禁止が確認された。(6)

 これらは共に、動物の、そして条件付きで人間の、卵・受精卵・胚を用いた基礎研究は認めるものの、人間のクローンを作るという試みを禁止しようとしている。普通に考えると、これは非常に素早い対応だったと言える。仮に同じことが日本で起こったという場合を考えてみると、異常なくらい敏速に対応がなされたと言って良い程である。(7) これには、欧米で七○年代以降盛んに行なわれてきた人間の胚の取り扱いをめぐる議論の積み重ねが前提にある。とはいえ、このように早急に、しかも一斉に、クローン人間禁止の結論を出す必要があったのだろうか。本稿で問題にしたいのはこの点である。

 以下、本稿では、生命操作をめぐる議論を整理しながら、1)「クローン」の意味(技術的側面)とその誤解、2)その可能な目的(現実的側面)と問題点、3)「人間のクローン」の倫理的妥当性とその根拠、について考えてみたい。

 「クローン(clone)」という言葉の意味を、まず最初に整理しておきたい。生命工学(バイオテクノロジー)の用語としての「クローン」とは、本来は、人工的に細胞を培養すること(cloning) を意味する。これは何ら特別なことではない。いまここで「クローン」と呼んでいるのは、より拡大された意味で、動物の細胞から親と同じ遺伝子を持つ動物を造り出す作業を意味している。この意味でのクローンも、植物や動物の単性生殖では珍しいことではないが、哺乳類等の高等生物ではほんの数年前まで不可能だろうと思われていた技術である。それが昨年(1997年2月23日)突然、羊について成功したことが報じられたのだから各界に衝撃を与えたのである。(8)

 ロスリン研究所で作られたクローン羊ドリーは、(1)元の雌の羊(A)の乳腺細胞からとった遺伝子を、飢餓状態に置くことによって「初期化」し、(2)これを別の羊(B)の遺伝子を抜き去った未受精卵に注入し、電気刺激を与えて細胞融合させ、(3)それを� ��た別の羊(C)の子宮に移し着床させることによって出産させたものだと言われている。−この体細胞核移植の過程の中で注目すべき点は最初の過程である。全ての生物は細胞から出来ており、全ての細胞には遺伝子が含まれている。とはいっても、例えば人間の体細胞は、既に、骨、皮膚、内臓などに分化してしまっており、それ以外の遺伝情報は眠っているので、これを培養増殖できたとしても、それぞれの組織が再生産されるだけだろう。生殖細胞だけが「全能性」、つまり一つの個体に成長する全ての細胞を生み出す能力、を持っている。ドリーは、体細胞の遺伝子を用いたという点で、そして化学操作によってこれを初期の全能性を持った状態に戻すことが出来たという点で、画期的だったのである。

 その後ドリ� ��は妊娠し子を産み、多少人懐っこい所があるという点を除けば、現在も普通の羊と違う点は見られないという。現在のところ、クローン羊や牛の死亡率が異常に高いという、恐らく技術的な、問題点はあるものの(9) 、クローン技術そのものは、可能な技術として確立されつつあると考えられる。

 ここまでは、科学である。しかし話はここから急に非科学的になる。クローン羊の誕生直後には、人間のクローンについての種々な浮説が飛び交った。自分と同じもう一人の自分の誕生、死んだ家族の再生、ヒトラーのクローン−人間の「複製」に関するニュースは、マスコミのセンセーショナリズムも手伝って、SF小説やマンガのような連想を生んだ。なかでも荒唐無稽だったのは、大量のヒトラーのクローンという話だろう。(10)−自分と同じもう一人の人間を作るという考えは、空想してみるには面白いが、現実的には全く不可能であるのは言うまでもない。クローン技術の応用の是非を問題にする前に、こうした一般的誤解を解いて� ��く事が必要だろう。こうしたクローン人間に関する一般の誤解は、「遺伝子の同一性=個体の同一性」という誤解(理論的には「同種性=同一性」という誤解)にその根を持っている。

 先ず、遺伝子が同じなら同じ人間という考えは、「遺伝子」の働きの過大評価に基づく誤解である。遺伝子は、卵の内部(ミトコンドリア内にも少しだが遺伝子がある)・母体内の状態・外的刺激など、出生前・出生後の様々な環境要因との関係の中で生命を作り出して行く、一つの因子にすぎない。(11)有名な狼少年・狼少女の例を持ち出すまでもなく、特に人間の場合には環境の力が大きい。仮に物理的に自分と全く同じ人間が作り出せるとしても、性格や記憶まで全く同じということは有りえない。出生前も出世後も同じ環境因子� �再構成することが不可能である以上、ヒトラーによく似た体つき、よく似た気質の人が生まれることはあっても、同じヒトラーが生まれることはない。−例えば、同じ遺伝子を持った別の自分の例として、一卵性の双生児の場合がある。一卵性双生児は、全く同じ遺伝子を持っているだけでなく、母胎内や家族関係を含めて、外面的には殆ど同じ環境で育っているはずである。それでも、よく知っている人が見れば、例えば有名な、きんさんとぎんさん、上杉達也と上杉和也は誰でも区別できるように、別人である。自分のクローンを作るとは、よく言われるように、せいぜい大きく歳の離れた一卵性双生児を作ることに他ならない。

 政界や財界の大物が自分のクローンを作るというような場合を考えても、同じことが言� ��る。受精卵の状態から、出生、成長まで長い時間がかかるという点を考えないでおいても、作られたクローンが自分の意志を持つ限り、誰かの思惑通りの行動をとってくれる保障はどこにもないし、最初からそのためにクローン人間を作るというのは、人権という点から見れば、奴隷を作るということ以上にありえないことである。

2012年6月1日金曜日

Shorebird 進化心理学中心の書評など


[書評] 「The Folly of Fools」 21:06

本書は互恵的利他行為,親の投資,コンフリクトなどの数々の啓発的な進化理論を主導したことで知られる進化生物学者ロバート・トリヴァースによる自己欺瞞についての本だ.トリヴァースは「動物の信号が(ドーキンスのいうように)他者への操作のためだとしたら,それは相手側に嘘を見抜くような対抗進化を生じ,さらに操作側に見破られないための自己欺瞞が進化するだろう」というアイデアを最初に思いつき,それを1976年のドーキンスの「利己的な遺伝子」初版の序文で提示したことで知られている.それから35年経ってついにそれを一冊の本に仕上げたというわけだ.なお原題の「The Folly of Fools」は「馬鹿どもの愚行」というぐらいの意味だが,本書では自己欺瞞による様々な人々の愚行が(トリヴァース本人のものも含めて)これでもかこれでもかというぐらい取り上げられていて,なかなか異様な迫力を持つ本になっている.

本書は,まず自己欺瞞の進化的な議論がなされ,その後は各論が手当たり次第に取り上げられるという構成になっている.

まずトリヴァースがこの問題を考え始めた経緯が書かれている.それによると70年代の初め,遺伝子視点からの適応度を考えることにより様々な生物の社会理論を作ることができたが,自己欺瞞の「何故正確な情報を集めているのにそれをわざわざ歪め捨てるのか」という問題は理解困難だったそうだ.そして1972年に「他者を(操作するために)よりうまく騙そうとすること」によりそれが理解できることに思い至ったと書かれている.

トリヴァースの主張は「他人をうまく騙すために情報を再構成し自分を騙す」ことが自己欺瞞の本質だというものだ.これはクツバンの意識の報道官モジュールという考え方により自己欺瞞を説明しようという主張の基礎になったものだと言えるだろう.

トリヴァースは,これはヒトに限らずおよそ信号システムがあるところではどこでも生じる問題であること,「騙し」の問題にはきれいな解は無く,アームレースになることを強調している.

トリヴァースの解説はアームレースとしての側面に重心が置かれる.最初は「検知」

自己欺瞞が騙しや操作の検知を逃れるためのものであるなら,そもそもヒトはどのように他人の欺瞞を検知するのだろうか.トリヴァースは「嘘をつくために神経質になっていること」「より自分をコントロールしようとして抑制されすぎたりオーバーにリアクトすること」「嘘を一貫させるための認知的負荷が与える影響」という候補を検討し,これまでの実験や犯罪捜査などのデータからは3番目のものが最も重要らしいとしている.具体的には嘘をつくことに集中するために動きが減ること,他の刺激への反応が遅れること,無意識のプロセスが表に出ること(抑制コントロールが弱まる,癖がより出るなど)などだ.

また言語的な手がかりとしては,1人称代名詞が減る,修飾的な語句が減り叙述が単調になる,否定形が多くなることが挙げられていて面白い.ここでトリヴァースははっきりとは書いていないが,要するにこのように騙しは検知されうるので,これへの対抗として自己欺瞞が生じうるのだといいたいのだと思われる.

では具体的にどのような自己欺瞞があるのか.トリヴァースは様々な自己欺瞞の現れ方を並べている.