■ピテカントロプスは「鹿鳴館」だった!?〜宮沢章夫の東大「80年代」講義
白夜書房で知人の編集者E君がつくった宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』ISBN:486191163Xをパラパラと読み始めた。「80年代」とはいっても、この本の考察の対象はおもに80年代の前半であり、とくに当時の東京の空気を象徴する、ピテカントロプス・エレクトスという「日本で最初のクラブ」に焦点が当てられている。
この本で宮沢章夫は、大塚英志の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』ISBN:4061497030が描いているような「おたくの時代」としての「80年代」とは別の「80年代」があったということを、当時のピテカントロプスというクラブの「かっこよさ」がうまく伝えられない、ということをなんども繰り返すことで、逆説的に伝えようとしている。
ハリケーンでは、各カテゴリはどのように速いのですか?
興味深いのは、大塚英志が彼の本のなかで、自分に都合よく位置づけた観のある「岡崎京子」(的なもの)を、宮沢章夫もまた、もうひとつの「80年代」の側に置こうとしていることだ。そもそも「おたく」なる差別語が、中森明夫が「岡崎京子」的なるものを自陣営の側に引き込むために編み出されたものだった、と私は考える。大塚、中森、宮沢といったひとたちが、自分の言葉ではなく、自分より若い世代の「オンナノコ」の感性に託すことで表現したかったこととは、いったい何だったんだろう。岡崎京子と同学年の私には、それがよくわからないし、わからないがゆえに、彼らの言説が鬱陶しい。
しかし、この本で宮沢章夫が正直に引用しているように、『東京ガールズブラボー』の巻末に収められた浅田彰との対談で岡崎京子自身は、ピテカントロプスは、
あたしにはちょっとシキイが高くて居心地が悪かったな。もっとどんくさいほうがいいのになとかおもってた。
どんな雰囲気のレベル
と語っている。私はピテカントロプスなんて一度も行かなかったし、80年代前半はけっこう、千葉のような地方都市も「どんくさい」なりに面白かった。岡崎京子は下北沢の理髪店の子供だから、むしろ感性としては下町ッ子で、宮沢章夫が80年代における「鹿鳴館」(=近代化の象徴)だったというピテカントロプスなんかより、ずっと面白い遊び場を知っていたはずだ。
おそらく「1980年代」論というのは、論の立て方が間違っているのだと思う。「80年代前半」といわれている時代が面白いのは、当時はまだリアリティのあった「昭和50年代」という言い方で表現されるドメスティックな「どんくささ」と、「鹿鳴館」という譬えがいみじくも言い当てている「近代化」とが同居していた時代だからだ。浅田彰が80年代の「福� ��諭吉」だったとしても、その言説に乗っかって行動する人ばかりが生きていたわけではない、ということである
ブラックホールは何色です。
岡崎京子については「80年代」と結びつけて語りたがる人がとても多いけれど、個人的には一度しか面識がないが、それでも岡崎さんと同時代を生きてきたという気持ちの強い私にとって、彼女は「90年代」の人であり、少なくともそうであろうとした作家だったと思う。岡崎京子の「90年代」との格闘を引きつごうとする作家がいないことが私には残念だし、彼女より年長の男たちがこぞって彼女を自分たちの手前勝手な「80年代」に幽閉しようとしていることが、腹立たしくてならない。
この本のおかげで、これまでずっと「擁護」しようと思って力んでいた「80年代」から、私はすっかり解放されたように感じた。自分はもしかしたら「80年代」の人間ではなくて、どちらかといえば「90年代」の人間だったのかもしれない。それでも宮沢章夫が「80年代」を語りつつ、それ以前の70年代に強く拘束されているという意味では、私にとっても「80年代」は無意識に沁みこんでいるはずで、もしも「80年代」を批評の俎上に載せようとするなら、その無意識をこそ分析しなくちゃならないんだろう。
7月29日と30日に出させてもらう「批評サミット〜批評家トライアスロン」
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