クローン人間の倫理性
―Ethics of Human Cloning
上村 芳郎 (UEMURA,Yoshiro)
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昨年(1997)の大きな話題の一つに、イギリスで作られたクローン羊ドリーがある。スコットランドのロスリン研究所で、雌の羊(A)の体細胞から取った遺伝子を、羊(B)の未受精卵に移植し、これを羊(C)の子宮で代理出産させることによって、元の羊(A)と同じ遺伝子を持った別の羊を造り出すことに成功したのである。(1) この成功の意味するものは、生殖細胞(精子と卵子)以外の細胞からでも、つまり、体の一部の細胞や冷凍保存された細胞から、同じ遺伝子を持つ元の個体を再生することも不可能ではなくなった、ということである。
これに続いてアメリカでも、羊のクローンと猿のクローン作りが成功し、更に商業ベースで牛のクローン作りが着手されたと報じられた。(2) また今年になって日本でも、石川県畜産総合センターで双子のクローン牛「のと」「かが」が誕生したのを皮切りに、各地でクローン牛が次々に誕生した。(3)
羊で可能なことは、人間でも可能なはずである。クローン羊の誕生はクローン人間の誕生の可能性を予告するものであり、社会的に広範な危惧を呼び起こした。実際に、アメリカのある科学者(Richard Seed博士)は、施設と費用が準備できればすぐにでも人間のクローン赤ちゃんを作る、と述べ、物議を醸し出した。(4)
こうした一連の出来事は、昨年の「クローン」を廻る話題として、多くの人の記憶に新しいだろう。しかし、表面のこうした出来事に隠れて目立たないが、もう一つの別の流れがあった。クローン羊誕生のニュースに続いてすぐ、イギリス政府はロスリン研究所への助成金の打ち切りを表明し、クリントン大統領は諮問委員会を招集した。(5) そしてこの委員会の報告に基づいて、六月にクローン人間の研究を禁止する法案を連邦議会に提出した。また六月の欧州首脳会議では、クローン人間禁止の協定を結ぶことが採択され、またイタリアやフランスでも人間の胚を使った研究の禁止が確認された。(6)
これらは共に、動物の、そして条件付きで人間の、卵・受精卵・胚を用いた基礎研究は認めるものの、人間のクローンを作るという試みを禁止しようとしている。普通に考えると、これは非常に素早い対応だったと言える。仮に同じことが日本で起こったという場合を考えてみると、異常なくらい敏速に対応がなされたと言って良い程である。(7) これには、欧米で七○年代以降盛んに行なわれてきた人間の胚の取り扱いをめぐる議論の積み重ねが前提にある。とはいえ、このように早急に、しかも一斉に、クローン人間禁止の結論を出す必要があったのだろうか。本稿で問題にしたいのはこの点である。
以下、本稿では、生命操作をめぐる議論を整理しながら、1)「クローン」の意味(技術的側面)とその誤解、2)その可能な目的(現実的側面)と問題点、3)「人間のクローン」の倫理的妥当性とその根拠、について考えてみたい。
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「クローン(clone)」という言葉の意味を、まず最初に整理しておきたい。生命工学(バイオテクノロジー)の用語としての「クローン」とは、本来は、人工的に細胞を培養すること(cloning) を意味する。これは何ら特別なことではない。いまここで「クローン」と呼んでいるのは、より拡大された意味で、動物の細胞から親と同じ遺伝子を持つ動物を造り出す作業を意味している。この意味でのクローンも、植物や動物の単性生殖では珍しいことではないが、哺乳類等の高等生物ではほんの数年前まで不可能だろうと思われていた技術である。それが昨年(1997年2月23日)突然、羊について成功したことが報じられたのだから各界に衝撃を与えたのである。(8)
ロスリン研究所で作られたクローン羊ドリーは、(1)元の雌の羊(A)の乳腺細胞からとった遺伝子を、飢餓状態に置くことによって「初期化」し、(2)これを別の羊(B)の遺伝子を抜き去った未受精卵に注入し、電気刺激を与えて細胞融合させ、(3)それを� ��た別の羊(C)の子宮に移し着床させることによって出産させたものだと言われている。−この体細胞核移植の過程の中で注目すべき点は最初の過程である。全ての生物は細胞から出来ており、全ての細胞には遺伝子が含まれている。とはいっても、例えば人間の体細胞は、既に、骨、皮膚、内臓などに分化してしまっており、それ以外の遺伝情報は眠っているので、これを培養増殖できたとしても、それぞれの組織が再生産されるだけだろう。生殖細胞だけが「全能性」、つまり一つの個体に成長する全ての細胞を生み出す能力、を持っている。ドリーは、体細胞の遺伝子を用いたという点で、そして化学操作によってこれを初期の全能性を持った状態に戻すことが出来たという点で、画期的だったのである。
その後ドリ� ��は妊娠し子を産み、多少人懐っこい所があるという点を除けば、現在も普通の羊と違う点は見られないという。現在のところ、クローン羊や牛の死亡率が異常に高いという、恐らく技術的な、問題点はあるものの(9) 、クローン技術そのものは、可能な技術として確立されつつあると考えられる。
ここまでは、科学である。しかし話はここから急に非科学的になる。クローン羊の誕生直後には、人間のクローンについての種々な浮説が飛び交った。自分と同じもう一人の自分の誕生、死んだ家族の再生、ヒトラーのクローン−人間の「複製」に関するニュースは、マスコミのセンセーショナリズムも手伝って、SF小説やマンガのような連想を生んだ。なかでも荒唐無稽だったのは、大量のヒトラーのクローンという話だろう。(10)−自分と同じもう一人の人間を作るという考えは、空想してみるには面白いが、現実的には全く不可能であるのは言うまでもない。クローン技術の応用の是非を問題にする前に、こうした一般的誤解を解いて� ��く事が必要だろう。こうしたクローン人間に関する一般の誤解は、「遺伝子の同一性=個体の同一性」という誤解(理論的には「同種性=同一性」という誤解)にその根を持っている。
先ず、遺伝子が同じなら同じ人間という考えは、「遺伝子」の働きの過大評価に基づく誤解である。遺伝子は、卵の内部(ミトコンドリア内にも少しだが遺伝子がある)・母体内の状態・外的刺激など、出生前・出生後の様々な環境要因との関係の中で生命を作り出して行く、一つの因子にすぎない。(11)有名な狼少年・狼少女の例を持ち出すまでもなく、特に人間の場合には環境の力が大きい。仮に物理的に自分と全く同じ人間が作り出せるとしても、性格や記憶まで全く同じということは有りえない。出生前も出世後も同じ環境因子� �再構成することが不可能である以上、ヒトラーによく似た体つき、よく似た気質の人が生まれることはあっても、同じヒトラーが生まれることはない。−例えば、同じ遺伝子を持った別の自分の例として、一卵性の双生児の場合がある。一卵性双生児は、全く同じ遺伝子を持っているだけでなく、母胎内や家族関係を含めて、外面的には殆ど同じ環境で育っているはずである。それでも、よく知っている人が見れば、例えば有名な、きんさんとぎんさん、上杉達也と上杉和也は誰でも区別できるように、別人である。自分のクローンを作るとは、よく言われるように、せいぜい大きく歳の離れた一卵性双生児を作ることに他ならない。
政界や財界の大物が自分のクローンを作るというような場合を考えても、同じことが言� ��る。受精卵の状態から、出生、成長まで長い時間がかかるという点を考えないでおいても、作られたクローンが自分の意志を持つ限り、誰かの思惑通りの行動をとってくれる保障はどこにもないし、最初からそのためにクローン人間を作るというのは、人権という点から見れば、奴隷を作るということ以上にありえないことである。
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そしてこの場合、自分をクローンを作る側に置いて考えてしまうので、作られるクローンが私かもしれないことが忘れられている。これは後で述べるように、人間の生死が三人称の視点でしか見られていないということを意味している。それは「作る」という言い方にも現れている。ハックスレーの『素晴らしき新世界』で描かれているような、人工子宮によって機械的に生産されるクローンなど、少なくとも当分の間は考えられない。(12)クローンも母(代理母)によって「産まれる」のである。アメリカで代理母が親権を主張して法的争いが生ずることでも解るように、産んだ母親にとって子は自分の子である。夫以外の第三者の精子を使っ� �人工授精(AID)や体外受精(IVF)で生まれた子が、「普通に」生まれた子と同じ人権を持つように、クローン技術によって生まれた人間が、独立の一個の人間であり、また同じ遺伝子を持っていても、遺伝子上の「親」とは全く別の人間であることは明白である。
更に言うと、クローンの問題は、人間の個体性(自己の同一性)に関する誤解を明らかにする。遺伝子の同一性に関する誤解の根本にあるのは、自己の同一性に関する誤解である。「同じ」という言葉の意味には、英語の'the same … as'と'the same … that'で区別されるような、同種性と同一性の二種がある。殺人の凶器になったナイフは、「同じ製品」のナイフではなく、殺人に使われた当のナイフである。工業製品について自明であることが、生命体に関しても言える。クローン(clone) の語源がギリシャ語の「小枝、挿し枝、発芽」を意味する"κλων"に由来するように、バラの枝を挿し枝にして増やせば「同じ」バラが生えてくる。しかし「同じ」なのは種類だけであり、同じ遺伝子を持っていても、それらは別の個体である。羊の場合にも、人の場合にも、同じことが言えるはずである。
同種性は、社会的関係性の視点である。社会は本質的に「役割」関係によって成立している。普段の生活では、同種性で十分である。しかし私の存在に関しては、事情は別である。私が私であるという同一性の根拠は、他人の目を超えた次元の視点である。これを神の視点であると言えれば、話は簡単だ。しかし現実的には、私の目から見れば自明であるはずの私の存在の唯一性が、他人の目から見た場合にも自明であることを私は簡単に信ずることが出来ない。ここに「クローン人間」がセンセーションを呼ぶ所以がある。
例えば、ペットの犬が死んだので、良く似た犬を、同じ名前をつけて、新たにペットとして飼うことは(余りないだろうが)、不道徳でも悪い事でもない。しかし私の死んだ後、私 と良く似た別の私が私と同じ名前を持ち、家族からも私と同じ人間だと思われているという状況が仮に有るとすると、誰でも何か違和感をもたざるを得ないだろう。私は、私の存在が、交換不可能な唯一の存在であり、「かけがえの無さ」(13)があると信じたい。その根本にあるのは自己愛だといっても良いが、これは自己の存在についての根源的な信念である。だから同じ理由で、自分が心から愛する人のクローンが創られるという考えを肯定することもできない。
従って、よく言われるような意味で、誰かの「クローンを作る」という考え自体が、理論上の誤解に基づいているうえに、実際的にも実現不可能である。これに対して、実際的に実現可能な場合として考えられるのは、赤ん坊のクローンである。換言すれ ば、クローン技術はもう一人の別の私を作るものではない。また何らかの付帯的目的でクローン人間を作ってはならない。その限りで、人間のクローニングの可能性は、少なくとも当面は、子どもを産む手段として、特に不妊の夫婦への治療手段として以外には考えられない。
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ドリーについての研究を公表した『ネイチァー』(1997年2月27日号)の発行に合わせて行なわれた会見やその後の会見で、イアン・ウィルマット博士らは、この技術は家畜の品種改良や人間の難病の治療を目指したものであり、人間への応用については「可能だろうが、とても不快なことだ」と述べ、「禁止されるべきだ」と主張した。(14)そしてこれを裏づけるように、その後、人の遺伝子を組み込んだクローン羊ポリーを誕� �させることによって、血友病の治療に使える人の血液凝固因子を作り出す試みに着手している。(15)
実際、このクローン技術が何に利用されるかと考えれば、人間への応用以前に動物、特に家畜への商業的利用が考えられる。この方法を用いれば、同じ遺伝子を持った動物を理論上は無限に生産できるので、良い家畜を大量に生産する方法として有効である。アメリカのウィスコンシン州の畜産育種会社が、同年8月「より簡単な手続きで」体細胞クローン牛の受胎に成功し、今年になって(1998年1月)別の会社が十頭ものクローン牛を誕生させたと報じられた。(16)また既に述べたように、日本でも、今年になってクローン牛が次から次に誕生した。これは良質の「霜降り」肉を造り出すために、これまで日本で蓄積され� ��きた人工授精の技術の延長上に生じている。
しかし次に、人間の病気の治療という目的が考えられる。それは、ロスリン研究所の様に、新しいタンパク等を作るだけでなく、臓器移植への利用がある。日本では昨年やっと脳死からの臓器移植法が施行されたばかりだが、臓器移植の先進国アメリカでは、移植希望者5万人に対し、毎年2万2千人の命が移植によって助かっているといわれる。臓器不足は深刻である。これを解消するために、人間の遺伝子を組み込むことによって移植しても拒絶反応を起こさない動物(例えば豚)の臓器の開発が盛んに試みられている。−更にまた、パーキンソン氏病の治療に、中絶した胎児の脳を利用する試みが行なわれている。胎児の脳細胞は成長を続けているので、患者の脳に注入 すると、再びドーパミンを分泌するようになるという。しかし利用できる中絶胎児の数は非常に制限されている。これを補うために、脳のないクローンの胎児を作ろうという計画がある。脳がなければ人間ではないので、倫理的問題はないという。(17)
後で触れる最後の場合を除けば、こうした動物へのクローン技術の応用は、将来実用化される可能性も高いし、遺伝子操作の技術の妥当性とヒューマニズムの立場を前提にして、これに疑問を持たない限り、将来の安全性に関する技術的問題は残っているにしても、倫理的に非難される謂れはない。しかし、動物では良いことが何故人間にはいけないのか(動物解放論者ならば、人間にしていけないことを何故動物にならしても良いのか、と問うだろうが)という疑問を含� ��て、ここで問題になるのは、ヒューマニズムの立場の濫用だろう。
病気の治療のために、−つまり、いま此処に不条理な苦しみがあり、それによって理由なく苦しんでいる人がいる。そしてその苦しみを取り除くことが出来るかもしれない。ならば敢えてそれをしないことこそ非人間的である。少なくとも病気の治療や看護に当っている人たちは、そう考えるだろう。ヒューマニズムの立場から、これを否定することは出来ない。市井三郎は『歴史の進歩とはなにか』の中で、「最大多数の最大幸福」という功利主義の原則を反転して、「"不条理な"苦痛−つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから受ける苦痛−を減らさねばならない」という価値理念を提示している。(18) 病気や不妊の治療はまさにこれに該当する。クローン技術が、それによって新たな不条理な苦痛を生むというようなことがなければ、当然これに含まれる。
しかし、どこまでが「病気」で、どこまでが「治療」か、というのは相対的な概念である。「病気」と「治療」という概念は、「正常」という概念を前提にする。何が正常かという問いは、特に道徳的な問題の場合には、それ自体の基準に拠るよりは、多くの人の習慣的判断という相対的な基準によって決定される場合が多い。医学的な判断の場合にも同じことが起こっている可能性がある。優性学の名の許に行なわれた過去の蛮行を思い起こすまでもなく、「治療」という概念が、道徳的判断の免罪符になる危険は常にある。これはヒューマニズムの立場について� �にいっそう妥当する。
どのような動物は、タイガに住んでいて、そこに適応?
ヒューマニズムとは、全ての人間が等しく平和に生きる権利を持つことを意味するが、それは同時に人間中心主義でもある。ベンサムの快楽計算の方法に訴えれば(19)、遺伝子操作の技術は、人間全体の快楽の総量、即ち幸福を増やすことに寄与するかもしれない。しかし「人間」の福祉のためになら何でも許される訳ではない。近代文明の成果である、商品の低コスト化と大量生産は、外面的には豊かな社会をもたらした。しかし最近になって注目を浴びるようになったダイオキシン汚染や環境ホルモンの問題が示すように、人類の存続に深刻な影響を及ぼす予期せぬ害悪も生み出してきた。これは結果として人間全体の苦痛の総量 を増やしている。目先の幸福を求めるヒューマニズムは、長期的に見れば、人間だけを特別扱いし人間以外の存在の幸福を顧みないことによって、自己自身を破壊する原理として機能しかねない。
特に、歴史の浅い遺伝子組み替え技術に関してはまだ未知の領域が残っている。自然のシステムの中で遺伝子の多様性が果たしている役割については、もっと慎重な評価が必要だろう。経済性だけが動機の遺伝子組み替え技術の濫用は問題だ。修正功利主義の立場から主張される「最大期間における最大多数の最大幸福」という視点が必要なのは、まさにこの場面だろう。
遺伝子組み替えの技術は、植物に関しては、既に商業的利用が行なわれている。人と猿の遺伝子は、98%以上が同じだと言われている。ヒ� ��ゲノム計画が完成し遺伝子の秘密が解き明かされるまでは確証できないが、科学の観点からは、人間の遺伝子だけを特別扱いする理由はない。問題にするなら、動物に人間の遺伝子を組み込むことよりも、妥当な理由もなく遺伝子を交ぜ合わせることそのものだろう。70年代中頃の遺伝子操作の黎明期に懸念されていたほど、遺伝子の組み替えは危険を孕んだものではないのだろうが、それでも長期に渉る影響に関して未知の部分は多い。実際に遺伝子組み替えの技術がどういう場面で実用化されているか見てみると、昨年から日本にも輸入されている、除草剤耐性の大豆や殺虫性のトウモロコシなどのように、低コスト化が目的の場合が多い。ここで優先的に働いているのは、近視眼的な経済効率という原理である。
こ� ��までの説明から解るように、ここで筆者は、技術として考えれば、クローン技術は特別なものではなく、遺伝子組み替えや体外受精と同じ、自然のメカニズムを利用した一つの技術である、と考えている。技術そのものは、善でも悪でもないという科学の中立性を前提しているといっても良い。それだからこそ、その利用の倫理が問題になるのである。簡単に言えば、この章で扱っている(臓器のクローニング以外の)クローン技術の現実的応用という問題は、これはクローン技術の問題と言うよりも、遺伝子組み替えの問題、ヒューマニズムの立場の是非の問題である。そして現実にヒューマニズムの立場に基づいて世界が動き、遺伝子操作が実用化されているのであれば、その技術的妥当性についての判断は今後を待つしかないとし� �も、その倫理的妥当性に関しては新たな問題はない。クローン技術と人間の遺伝子の利用が新しく倫理的に問題になるのは、人間のクローニングの場合だけなのである。
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生殖過程に人間の手が関与するようになってから、不妊は治療の対象として見られるようになった。クローン羊の誕生後、このクローン技術が、同性愛のカップルを含めて、子どもの出来ない夫婦が「血の繋がった」子どもが欲しいという場合に、役立つだろう事が注目されている。そしてこの問題こそ、妊娠中絶の問題と併せて、道徳的非難と感情的反感を伴いながらこれまで長い間議論されてきた問題である。これを論ずる前に、その歴史的背景と議論の概略を先に見ておく必要がある。
最初の「試験管ベビ� �」ルイーズ・ブラウンの誕生(1978)は、人工授精の技術の実用化という事実だけはでなく、生殖にまつわる困難な問題を、避けようのない形で人類に突きつけることになった。その一つは、受精卵はその発達のどの時点で「ひと」になるか、という原理的問題(パーソン論)であり、もう一つは、体外受精で不可避的に生じる余った胚や凍結卵の取り扱いに関係する実際的問題である。
これは既に七十年代以前から、先ず人工妊娠中絶の問題として、一般の関心の対象となっていた。欧米のこれまでの伝統的なカトリック教会の見解では、受精の瞬間に霊が注入され、独自の個性を持った人間が誕生する。同じことを科学的にいえば、精子と卵子が結合した瞬間に、その人独自のDNAが決定される。この見解に従えば、 人工妊娠中絶は殺人を意味するから許されない。更にまた、人間の卵や胚をどこまで実験目的で使用することが許されるかという問題に関しても、この見解に従えば、胚や胎児は人間であるから、これを実験に使ったり、人工的に中絶したりすることは、許されないことになる。「生命の尊厳派」と呼ばれる立場の代表である。
一方で女性の自由を強調する立場からは、胎児は人権を持っておらず、生む生まないの自由は、女性の自己決定権に属する、という主張がなされた。現在の日米における、妊娠22週(または23週)未満に於ては「生むか生まないかの決定は、母胎の自己決定権に属する」という妊娠中絶の規定は、胎児の母体からの自立、即ち母体外での生存可能性 (viability)に基礎を置いている。しかし一方、医学技術の進歩は、従来なら死ぬしかなかった未熟児が健康に成長することをますます可能にしている。(現在では、妊娠22週未満の胎児でも、無事に育ったという記録がある。)受精卵の状態から母体外で生存可能な胎児との間に線を引く事さえますます難しくなってきているのが現状である。
こういう問題に一つの指針を示したのは、イギリスで1984年に出された、ワーノック委員会の勧告文である。(20)このワーノック勧告では、人になる可能性を持つものとしての卵細胞の慎重な取り扱いの必要性と、提供者の自己決定権を認めることによって、卵の提供者の承諾を得た上で、受精後14日目を超えない限りで、人の卵及び胚の実験的取り扱いを容認した、と言うより14日目を� ��えて胚を培養することを禁じた。この根拠になっているのは、14日めに原始線条という人体の中心を形成する線が現れるという事実である。しかし、生物学的観点からは、人間である存在と人間になる可能性を持つ存在との間に、線を引く事は出来ない。ましてクローン技術は、一片の体細胞から一個の人間を造り出す事を可能にした。体内の、また体外の、どんな細胞も、生物学的には生きており、人間になる可能性を持っていることになる。
こうした難点の結果、「ひと」の定義は、生物学的な意味ではなく、道徳的な意味で、なされねばならないという議論が行なわれるようになってきた。マイケル・トゥーリーの論文「妊娠中絶と幼児殺し」(21)以来、生物学的概念としての「ひと(ホモ・サピエンス)=人間」と 道徳的概念としての「ひと(パーソン)=人格」を区別して、後者にだけ生存権を認める議論が、この問題を考える一つの流れとなっており、その後「胚の道徳的位置」に関する多くの論文が書かれて来ているが、決定的な結論は出ていない。胎児は「ひと」でないという、人工妊娠中絶を肯定する立場の代表的見解として、「(持続的な)自己意識」「理性=判断能力を持つ」「複雑な意思疎通」といった基準が出されている。(22)この定義に従えば、胎児や植物状態の患者は「ひと」ではないので、中絶も安楽死も罪にはならない。−この生物学的には「ひと」ではないが倫理的に「ひと」である生命を「ひと」の定義として作ることは、人間以外の知性体を想定するとき、無意味ではない。人間と同じくらいの或いは人間以上の知性を 持った宇宙人は、法的にはともかく倫理的には、「ひと」であろう。しかし、その逆が正しいとは必ずしもいえない。多くの人にとっては、胎児や大脳機能の失われた植物状態の患者であっても「ひと」であろう。
ここではこの難問に深入りしたくないが、受精卵はどこから「ひと」になるかという定義は、連続的なものに線を引くという困難に付き纏われている。これは原理的な困難である。生物学的にであろうと、道徳的にであろうと、事情は変わらない。多くの人は、胎児に可能的人間の資格を与えるだろう。その可能性とは、全ての細胞がクローニングによって人間になる可能性を持つという場合の、不可能ではないという意味での、論理的可能性ではなく、むしろ感情をふくめた道徳的な可能性である。その道� �的可能性とは、当事者たちがそれを人間の本質を具えたものと見ている、ということである。此処に本来の意味での倫理の場所がある。
どんな恐竜が死んなかった場合
脳死の場合を考えてみよう。脳死とは医学的に正しく定義された状態であり、実際に生き返った人はいない、としよう。それでも体が暖かく顔色が良ければ、その人の家族は、その人が死んでいることを信じられないかも知れない。その時、脳死体から移植のため臓器を取り出すのは、倫理的に許されない。柳田邦男氏が言うように(23)、ここで大事なのは二人称の視点である。パーソン論の背後にあるカントの理論に従って、道徳性が生き物(感性的存在者)としての人間を、叡智界(理性の国)の住人に高めるのなら、そこでは神と同じように、三人称で語ってはならない。
中世の否定神学では、神に付与される述語は、神の無� �性を制限するから、神に適合しない、神はせいぜい「〜でない」という形で述語できるだけだ、と主張した。神は、この世の物を指示する三人称の表現を超えているから、せいぜい二人称で、呼びかける仕方でしか、語ってはならない。−二人称は「我−汝」の直接向かい合う関係を示している。三人称はこの関係を物象化する。二人称においては、応答、相手からの働きかけが求められる。相手を自己と同じ所のものと見なすということ、相手の立場に自分を置くことが出来るということ、これが道徳の基礎である。生命操作の現場で忘れてならないのがこの視点である。三人称は、この関係を物の関係に転じることによって、人を手段として見る視点に道を開く。
この観点から言うと、妊娠23週未満といった法的な定� �と、人であるかどうかの道徳的判断とは、別の次元の話である。母胎内での胎児の胎動は、母親には胎児の人としての存在を告げるだろう。そこに道徳的判断が成立する。神経組織が発達していない妊娠前期の胎児には、自己意識も理性もないかもしれないが、周りから呼びかけられる存在になったときに、周りの人には「ひと」としての性格を持つのである。
今ここで議論の背景となっている理論的前提だけを取り出しておくと、
1)(人間の)生命の尊厳というヒューマニズムの立場
2)「不条理な苦痛を減らす」という功利主義の原理
3)個人の自己決定権という自由主義の原則
4)人格の自己目的性というカント倫理学の原則
という四つが ある。
人工妊娠中絶の問題では、1)胎児の生命と3)女性の自由という二つの原理が戦いあっている。そのため胎児の「人権」が問題になる。しかし今ここで考えたいのは、2)苦痛の減少、そして、特に人間の生命に関して重要なのは、4)人格の自己目的性、という原理である。クローン技術が可能な選択肢の一つとして、人間の不条理な苦痛を減らし幸福の総量を増すことに役立つなら、これを拒否する理由はない。しかし、クローン技術の応用が、トータルでより多くの幸福を生み出す事があるにしても、それによって人間の存在が何かの手段になってしまってはいけないのである。
既に述べたように、社会的存在としての人間の生活は、役割関係の中で成立している。この役割とは個人の方か ら見ると付帯性(偶有性)であるが、この関係性=付帯性に基づいて成立しているのが社会である。ベンサムの快楽計算は、なるべく多くの快楽の獲得手段である貨幣を与えよ、という結論に至るが、これはそのまま資本主義社会の要求である。現代の社会は功利主義の原理によって動いている。しかし自己目的の存在としての個人は、二人称の関係で関り合う。これをキリスト教の精神で愛と呼ぶことにすると、この愛という原理によって成立しているのが家族である。愛は功利性を超えた原理であり、自分の子どもだから愛するという無条件の愛が家族の本質である。付帯性によって生ずる条件付きの愛ではない。例えば財産だけが目当ての結婚は不道徳だと思われている。その人の本質ではなく、付帯性が目的になっているからであ� ��。同じ理由で成績が良いから愛するという親子関係も倫理的ではない。自己目的の存在であることを承認されているのが、子どもである。
人間に関しては、自分のクローンを作るという意味での、遺伝子の利用は非倫理的であることを既に見た。クローンは自己の複製を可能にするものではない。残るのは遺伝子そのものを残すということである。不妊治療の延長上にクローン技術を置いてみれば、病気の治療の一つの手段、つまりそれ以外の手段では遺伝子を残せない場合の一つの選択肢、以外のものではない。血のつながった子どもが欲しいという要求は、権利といえるかどうか疑問はあるが、少なくとも不当な要求ではない。動機は自己愛であっても良い。しかし人間が、何か他の目的ではなく、それ自体として他 の人間の存在を欲する場合が、自分の子を望む場合以外にあるだろうか。子どもはまだ存在しない。既に存在する誰かへの愛ではない。つまり付帯性ではなくその本質故の愛である。その意味で、これは最も利害を超えた(selfless)愛であると言える。確かに、何かの付帯的目的でクローン人間を作るということは、何かの目的で「普通の」人間を殺すことと同じくらい倫理に悖る行為だろう。人間は「決して単に手段として用いられてはならない」(24)というカントの倫理の原則は、まさしくこの場合に妥当する。しかし、クローンによって子どもを作ることは、自己目的の存在としての人間の「尊厳」を損なわない。
この観点から、クローン人間の可能性を考えてみると、感情的な理由で簡単に否定して済ませられるも� �ではない。具体的な場面で考えてみよう。
米生命倫理委員会(NBAC)の報告書は、「現時点においてこの技術は安全ではないことを示す科学的証拠があるから、現時点でこの方法で子どもを作るのは倫理的でない」(25)という結論に示されているように、保守的な立場をとっているが、その中で、三つの「特別な考慮を必要とするケース」について触れている。(26)三つのうちの最初の例は、「ある夫婦が子どもを欲しがっているが、二人とも致死の病気の劣性遺伝子を持っている。四分の一の確率で、短くて苦しい命しかない子どもを宿す危険を冒すよりは、別の選択を二人は考える。−子育てを諦める、養子をとる、出生前診断と選択的中絶を行なう、劣性因子を持たないドナーの配偶子を使う、二人の内の一方の� �胞を使ってクローンの子どもを作る。ドナーの配偶子と選択的中絶を避け、子どもと遺伝上の繋がりを持ちたいために、二人はクローンを選ぶ」という場合である。
NBACの報告書は二つ目の例として、「家族が大事故に会って、父が死に、一人っ子の赤ん坊が死にかかっている。母は、赤ん坊の細胞を使って体細胞核移植によって新しい子どもを作ろうと決断する。亡くなった夫の生物学的子孫である子どもを育てるには、これしか方法がない」という場合を挙げている。
同じ報告書の三番目の例は、「致死の病気の子どもを持った両親が、骨髄移植でしか子どもの命は助からないと知らされる。ドナーが見つからないので、両親は死にかかっている子どもの細胞からクローン人間を作ろうと思う。� �まくいけば、新しい子どもは骨髄移植に完全に適しており、たいした危険も不満もなくドナーになれる。その結果は、たまたま歳の違う一卵性双生児である二人の健康な子どもがいて、親から愛されるということになる」という場合である。
最初の例は、遺伝子に問題がある場合である。これは、この三つの例の中で最も問題がない場合だろう。一般的に考えれば、結婚する意志のない独身者や同性愛のカップルなど含めて、普通の手段では遺伝子を残せない場合に、クローン技術が実用化されれば、一つの可能な選択肢を与えてくれるという事実を先ず承認しよう。現在でも可能な選択肢として、ドナーの精子や卵子を用いる体外受精、代理母などの方法が用いられている。「なし崩し」論法ではないが、こうした方法� ��究極にクローン技術があるなら、現在のところはともかく、遠くない将来、クローンによる出産も行なわれ、それが特に倫理に反するとも思われない時代が来たとしても少しも不思議ではない。
二番目の例は、死んだ子どものクローンという誤解を招きやすい場合である。もしこの母親が、死んだ「同じ」子どもを欲しているのなら、それは、論理的にも倫理的にも間違っている。また夫の遺産の相続といった動機があってのことであれば、もちろん倫理的に正しくない。世間の人は再婚して新しく子を産むのを勧めるだろう。人間存在の唯一性(交換不可能性)を考えれば、その方が正しい。しかしこの女性の自己決定権は尊重されなければならない。もし受精卵や死んだ夫の精子が凍結保存されていれば、彼女は人工 授精で子どもを作るかもしれない。これを止める理由がなければ、クローン赤ちゃんを禁じる理由もない。
三番目の例は、病気の治療という目的があるが、そのためにだけクローン赤ちゃんが作られる訳ではないことが重要だ。確かにこの場合、クローン赤ちゃんが作られるのには、病気の子どもを助けるという目的がある。しかし世間では一人っ子では可哀想だから下の子を産むという場合は珍しくない。また世の中には、例えば結婚生活がうまく行かない時に夫の愛を取り戻すために子どもを産むという妻がいても、これを非難できる人は少ないだろう。「愛によってなされることは常に善悪の彼岸で起こる」(27)というニーチェの言葉を持ち出すのは、場違いかも知れないが、この場合も、子どもの存在自体が第一に意志されており、子どもが何かの目的のためだけに作られるのとは事情 が違う、と言うことができる。
他にも似たような場合が当然考えられるだろう。しかし、どちらの場合にしても、クローン技術によって産まれる子どもが、それ自体の存在が望まれるのではなく、何か他の目的のためにだけ望まれるのであれば、動機の点で倫理的ではないと言える。上の後の二つの場合は、意図的にそうした動機を排除した形で述べられている。その意味で、具体的判断の場合に、動機の純粋性をどう解釈するかが大きな課題として残るだろうが、この場合に、クローン人間の可能性は原理的に否定されるべきではない。
最後に、残った臓器のクローニングの問題に触れておくと、その極端な形が、既に述べたように、脳のないクローン人間を作るという話である。本人の体細胞からクロ ーン技術で臓器を培養すれば、拒絶反応などの心配の全くない移植が可能になる。臓器だけのクローニングが可能なら問題はないが、体全体のクローンからその一部を取り出すという形でこれが行なわれるなら、問題がないとは言えない。それは結局は人間のクローニングの過程を含むからである。しかも人間として認められない人間を作るということになる。
臓器移植に使えるように、脳のないクローン人間を作るという計画は、「パーソン論」の観点から言うと、生物学的には「ひと」だが、倫理的には「ひと」でない命を創り出すことを意味する。倫理的に「ひと」でない命とは、自己意識や理性を持たない生物学的人間を意味する。もしこの立場に立てば、人間の胎児も他の動物も同じだから、この計画には何の� �題もないことになる。また人間も他の動物も変わらないというラディカルな動物開放論の立場に立てば、やはり問題ないかも知れない。
しかし最初から人間でないので倫理的問題はないという場合と、問題がないように最初に人間性を奪うという場合では、事情が違う。NBACの報告書の三番目の場合に、双子の弟が兄を助けるためだけに作られるのであれば、これは明らかに人格の自己目的性を侵しており倫理的でない。胎児の中絶の場合を考えても、もし意図的に22週まで培養して合法的に中絶するために妊娠するというようなことがあれば、その場合も同じである。何かの理由で胎児を中絶することと、最初から中絶を意図して子どもを作ることは同じではない。胎児の中絶は、子どもの存在そのものを望まない� �合だが、脳のない胎児は、胎児の属性の利用である。これは、意図から考えれば、生きることが出来ない人間の胎児を作るということである。人工子宮の中で大量に生産される脳のない人間の胎児という未来像は、ハクスレーの「新世界」以上に、現在の人間の道徳性に対する大きな挑戦であろう。
注
1)朝日新聞 1997年2月27日
クローン羊ドリーに関しては、各種新聞記事とインターネットのホームページ(ロスリン研究所、NBAC等)の他、次のものを参照した。
ジーナ・コラータ『クローン羊ドリー』中俣真知子訳 1998年 アスキー社
(Gina Kolata; Clone. The Road to Dolly and Path Ahead.1997.)
リー・M・シルバー『複製されるヒト』東江一紀・真喜志順子・度会圭子訳 1998年 翔泳社
(Lee M.Silver; Remaking Eden: Cloning and Beyond in a Brave New World.1997.)
今井裕『クローン動物はいかに創られるのか』 1997年 岩波書店
熊谷善博『複製人間クローン』 1997年 飛鳥新社
室伏哲郎『クローン・ビジネスの世紀』 1997年 実業之日本社
軽部征夫『クローンは悪魔の科学か』 1998年 祥伝社
2)朝日新聞 1997年3月3日(クローン猿)
ただしこの猿のクローンは、受精卵の核を別の受精卵に移植したものだから、ドリーと同じ意味でクローンとは言えない。
毎日新聞 1997年8月9日(ABSグローバル社が、受精後30日目の牛の胎児から未分化の幹細胞を取り出し、別の未受精卵に移植し、代理母に妊娠させた)
毎日新聞 1997年8月10日(同社の、体細胞からのクローン牛)
3)朝日新聞 1998年7月6日
4)Mainichi Daily News, Jan.9,1998.
毎日新聞(1998年1月11日)所載のインタビューには、氏の「数ヶ月以内にシカゴに診療所を開設する。法律で禁じられれば、メキシコなどに造る」という発言があるが、その計画が実行されたというニュースはない。(9月8日の Mainichi Daily News には、「先ず自分のクローンを創る」という氏の発言が報道されている。)−しかし、これ以外にも、バハマに本社を置くクロネイドという会社が、インターネット上で(
5)朝日新聞 1997年3月2日(英農業省による研究所への研究費停止)
6)朝日新聞 1997年6月8日、10日(米生命倫理委員会の答申と、これに基ずく大統領の連邦議会への勧告)
この報告書の全文が、またこれに基づく大統領の議会への報告書等も、インターネットで(
Cloning Human Beings; Report and Recommendations of the National Bioethics Advisory Commission, June 1997.
7)日本でも先頃、人間の卵を用いたクローン研究の禁止が確認された(朝日新聞1998年7月28日夕刊)が、代理母による出産さえ認められておらず、昨年になってやっと脳死体からの臓器移植が認められたという現状を考えれば、余りに当然である。
8)I.Wilmut, A.E.Schnieke, J.McWhir, A.J.Kind & K.H.S.Campbell; Viable Offspring Derived from Fetal and Adult Mammalian Cells. in: Nature, Volume385, Feb.27,1997. pp.810-813.
9) 1998年9月現在、日本各地で12頭の体細胞クローン牛が生まれているが、そのうち7頭が死んでいる。「クローン動物は通常よりも大きくなる傾向が各国で報告されており、胎児の育ち過ぎが死亡の一因と見られている」(毎日新聞 1998年9月8日)
10)これをいち早く予言していたと言って良い小説が、アイラ・レヴィン『ブラジルから来た少年』小倉多加志訳 1982年 ハヤカワ文庫(Ira Levin; The Boys from Brazil.1976)、である。
ナチの残党(メンゲレ博士)が残された体細胞からヒトラーのクローンを作るというこの物語の隠された秘密は、実際のヒトラーの境遇を再現するために、94人のクローン・ヒトラーのそれぞれの父を皆65歳で死なせるという指令が実行される点にある。
11)ミトコンドリア遺伝子がどの程度の影響を持つのかは解っていないが、熊谷氏によると、
「未受精卵に体細胞の核を移植する、ドリー流の作製技術によって作りだされるクローンのミトコンドリア遺伝子はすべて、未受精卵を提供した母由来のものとなる。未受精卵を提供した女性が、体細胞のミトコンドリアと一致していない限り、コピーを作ったことにならないわけである。」(熊谷:前掲書 160頁)また、今井:前掲書 77-81頁をも参照。
12)Huxley,Aldous; Brave New World.1932.
13)森岡正博『生命学への招待』 1988年 勁草書房
14)朝日新聞 1997年3月7日夕刊
15)朝日新聞 1997年7月25日(ポリー誕生)及び12月20日(その詳細)
16)The Japan Times, Jan.22,1998.
17)これに関しては、米国ボストンの神経外科グループが、倫理的に問題が無いといえない人間の中絶胎児ではなく、豚の胎児の脳を使って治療に成功したというニュースが、伝わっている。(毎日新聞1998年4月26日)
18)市井三郎『歴史に進歩とはなにか』1971年 岩波新書 140頁、208頁
19)Bentham,Jeremy; Principles of Morals and Legislation.1781.Chapter 4.
20)米本昌平『バイオエシックス』1985年 講談社現代新書 177-9頁、222-6頁
また日本を含めた他の国の現状については、
金城清子『生殖革命と人権』1996年 中央公論社 152頁以下などを参照。
21)Tooley,Michael; Abortion and Infanticide. in: Philosophy&Public Affairs 2 no.1 (Fall 1972) 森岡正博訳「嬰児は人格を持つか」 加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』1988年 東海大学出版局
22)エンゲルハルト自身は、「厳密な人格」に「社会的人格」を補足することによって、胎児や脳死状態の患者に生存権をに認めようとしている。
cf. Engelhardt,H.Tristram,Jr.; The Foundations of Bioethics. Oxford University Press.1986.
エンゲルハート「医学における人格の概念」(久保田顕二訳)上掲『バイオエシックスの基礎』
23)柳田邦男『犠牲(サクリファイス)』1995年 文芸春秋社
24)カント『実践理性批判』Vorlaender編 Philosophische Bibliothek版 (1974年) Felix Meiner社 102頁
25)Cloning Human Beings; Report and Recommendations of the National Bioethics Advisory Commission, Rockville,Maryland, June 1997. p.81
26)op.cit.pp.78-80
27)ニーチェ『善悪の彼岸』第5章(断章153)
東京文化短大紀要第16号(1999)
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