「結合」 coniunctio において結びつく諸要素は、互いに敵意をもって対峙しているか、それとも愛情をもって惹き合っている対立者、対立するものや性質と考えられている。(p.27)
フグ毒乾燥させていますか?
The factors which come together in the coniunctio are conceived as opposites, either confronting one another in enmity or attracting one another in love. (p.3)
結合とは、結びつくことそれ自体であり、その内実であるところの敵意−愛情といった価値的な要素はここでは一義的な目的とはされていないように思われる。その見かけや内容は、副次的な問題なのである。
このように人間的なものを王や神性にまで高めたり、あるいはそれを人間以下の動物的形姿で表現したりするのは、対をなす対立者の超意識的性格を物語っている。それらは自我人格には属さず、自我人格を超え出ている。自我人格は、「善と悪のあいだに位置する魂」 anima inter bona et mala sita さながらに、それらのあいだに位置する。これらの対立対はむしろ、背理的性質を有する自己〔ゼルブスト〕の、つまり人間の全体性の現象形態である。(p.34)
マオリの部族は、言葉をどういう意味ですか?
The elevation of the human figure to a king or a divinity, and on the other hand its representation in sub human, theriomorphic form, are indications of the transconscious character of the pairs of opposite. They do not belong to the ego-personality but are supraordinate to it. The ego-personality occupies an intermediate position, like the "anima inter bona et mala sita" (soul placed between good and evil). The pairs of opposites constitute the phenomenology of the paradoxical self, man's totality. (p.6)
ユングは、自我(自我人格)と自己(セルフ)を分けて考えた。この引用はそれを対立物との兼ね合いで表わしている。自我を越えた超意識的(無意識的)なもの、対立を包含するもの、自我をも包含するもの、それがユングの言う自己である。
正方形を見つける方法
しかし、ここではさらにそのユングの理解を越えていこうと思う。すなわち、このブログ流に考えていきたい。ユングの述べる自我も自己も、いわば「わたし」のことである。それは、「わたし」を越えた何か、「わたし」とはまったく別の何かではない(対自的な視点にとどまれば、そうではないが)。そして、ユングの言う自我とはきわめて対自的な視点より眺められた「わたし」のことであり、ユングの言う自己とは即かつ対自的な「わたし」のことであると考えられるのではないだろうか。
意識的か無意識的(超意識的)かというよりも、このような「わたし」が「わたし」であることによる様態の方をこそ問題とすべきではないだろうか。文字通りの対立物それ自体よりも、対立物と「わたし」との対立物としての対立的な、それこそパラドキシカルな関係(関係に関係する関係)をこそ問題とすべきではないだろうか。この矛盾に比べれば、文字通りの対立物の概念的な矛盾など、矛盾のうちにすら入らない。ユングの自我と自己とは、このように読みなおすことができるように思われるのである。すなわち、ユングの術語にのっとるならば、自我を否定、止揚したものが、その対立(即自的−対自的)の矛盾が(もしくは全体が)自己の現象である。
記事一覧
テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術
0 件のコメント:
コメントを投稿