私は、そうではないと考える。既に前節では、道徳的直観(=「市民感覚」)を追認するだけの倫理理論には価値がないと書いておいた。では、それはなぜだろうか。
それは、我々の道徳的直観は、我々の祖先が狩猟採集生活をしていた時に進化的に獲得したものであり、現代社会にマッチしていないからである、ということにつきる。もし、我々の道徳的直観が現代社会にマッチしたものであるとすれば、倫理学にはなすべきことはない、といっても過言ではない。しかし、実際には、我々の道徳的直観はあまりにも時代遅れであり、文明社会には適応で きていないことが明らかだ。
例えば、次の例を見てみよう。
【事例3】あなたは新車のスポーツカーで高速道路を走っていた。ふと見ると、路肩に足に大けがを負った少年が見えた。少年をすぐに病院に連れて行くことが必要だが、新品の革張りシートが血で汚れてしまうために、クリーニング代が2万円かかる。あなたは少年を車に乗せるべきだろうか。
【事例4】あなたは寄付依頼のダイレクトメールを受け取った。2万円寄付すれば、アフリカの子供50人の命が助かりますと書いてある。あなたは寄付をするべきだろうか。(あなたは、新車のスポーツカーを買えるほどの裕福な人間であるとする。)多くの人の道徳的直観は、【事例3】では、「少年を車に乗せるべきであり、見て見ぬふりをすることは許されない」である。一方【事例4】では、「寄付はした方がよいが、しなくてもかまわない」である。なぜこういう違いが生まれるのだろうか。
素朴な功利主義で考えれば、【事例4】において救える命は50人であり、【事例3】においては1人なのだから、【事例4】の方こそ看過してはならない状況であるはずだ。なぜ、我々の道徳的直観は功利主義的な判断� �しないのだろうか?
"生態系モデルは何ですか?"
もちろん、アフリカの子供への寄付については、中間団体にほとんどが吸収されてしまう虞や現地で適切に使われない虞もあるので、50人の命が救えるというキャッチコピーが眉唾ものであるという信頼性の問題がある。しかし、仮にそのダイレクトメールを送付してきた慈善団体は非常に信頼度が高く、寄付金のほとんどが実際に子供の命を救う活動に使われるということが明白であったとしても、我々の道徳的直観による判断は変わらない。なぜだろうか?
それは、我々の祖先が道徳的直観を獲得した頃(おそらく数万年前)には、遙か遠いところで困っている人を助けるという手段も、遠いところの情報を素早く知るすべも持っていなかったため、「人� �け」の道徳的直観は、ほとんど目の前の人に限定された感覚になってしまっているためである。
つまり、【事例3】における直観的判断は、我々の道徳的直観によるものだと考えられるが、【事例4】における判断は直観的なものではなく、実は「道徳的」なものですらない可能性がある。道徳的直観は数万年前には存在していなかったような状況では無力なのだ。
目の前の怪我人を助けるということは、あらゆる宗教が推奨していることだし、場合によってはそれが自分の敵であろうとも助けるべしという「市民感覚」を多くの人が持っている。一方で、世界の裏側で困っている人を助けるということは、現代まで想定されてこなかったことなので、それについて伝統的宗教は何も言わない。せいぜい、一般論としては助ける方� �よい、とするくらいであろう。これは宗教ならずとも、伝統的な道徳の立場もほぼ同じであろう。
結局、「遠くの人を助ける」というような我々が進化的に経験してこなかったことは、そもそも道徳的に解釈することはできず、理性的にしか判断し得ないのだ。「理性的に判断」というと随分立派に聞こえるが、そうではない。既にヒュームが述べたように、「理性は感情の奴隷」にすぎない。カントは、理性によってしか我々は自由になれないと考えたが、近年の研究では、理性は、目的設定を行うというよりは、「目的を達成する手段を合理的に考えるための機構」であると見なされるようになってきている。
enviormentに何が起こっている
すなわち、目的は感情によって設定され、それを達成する手段が理性により選ばれるものである。この意味で、ヒュームの「理性は感情の奴隷」という言明は正しかったといえる。であるとすれば、「我々が進化的に経験してこなかったことは、そもそも道徳的に解釈されることはなく、理性的にしか判断し得ない」ということを言い換えると、「我々が進化的に経験してこなかったことは、感情次第でどんな判断もありうる」ということになるだろう。
例として、胚性幹細胞(ES細胞)の研究を考えてみよう。胚性幹細胞は様々な研究や治療に役立つ細胞であるが、ヒトの受精卵から作られるために、倫理的な問題を抱えており、現在対立が生じている。研究� �やこれにより治療が可能となるかもしれない難病を抱えている人はこの研究を推進している。彼らは、胚性幹細胞には倫理的問題があるかもしれないが、適切に規制すれば大きな問題にはならないし、それよりも胚性幹細胞を用いることによる利益の方が大きいと主張している。一方、ヒトの命を道具として使うことは許されないとする宗教者などは、このような主張を命の価値を軽視するものとして退けている。なぜこのような対立が起こるのであろうか?
その答えは、先ほどの考え方を援用すれば、胚性幹細胞のことなど人類は進化的にははほとんど経験してこなかったので、それに対する道徳的直観が存在しないからだ、ということになる。こういう場合に「理性的」に判断しようとすると、自分の利益の最大化を図る方向で� �ジックが組み立てられるので、結局、賛成派と反対派の議論は単なる利害の対立以上のものにならない。 感情次第でどんなロジックでも組み立てられるからだ。
どのように木製のジェネレータは、科学博覧会プロジェクトのために働くん。
我々が進化的に経験してきたこと(概ね数万年前までに存在した状況)においては、我々の道徳的判断はほぼ普遍的である。すなわち、小集団での食料の分配、傷病者の看病、命の危険が存在する状況における行動などは、国や文化が違っても、ほぼ同様の道徳的判断がなされる。しかし、(進化的な時間において)最近出現した、胚性幹細胞や中絶といった課題に対しては、国や文化どころか、それぞれの立場によって違う道徳的判断がなされ、場合によってはそれを「道徳的」と呼べないことも多い。それは、単に立場の違いを表しているだけのように私には思える。
私は、我々は進化的に経験してきたこ� �以外の道徳的判断はそもそも不可能である、という認識に立つことにより、これからの倫理学が成すべきことが見えてくる気がする。すなわち、倫理学がやるべきことは、我々の道徳的直観の修正ではなく、道徳的直観が働かない領域における対処法の構築ではないだろうか。
【事例3】と【事例4】をもう一度考えよう。困っている人を助ける、という我々の道徳的直観が目の前の人だけにしか及ばないというのは、現代社会においては既に不合理とも言える。そこで、もし我々が新しい倫理理論を作るとすれば、素朴には、【事例4】においても看過することは許されないとなるような理論を構築すべきと考えられる。しかし、そのような理論を現実感を持って多くの人が受け取れるかというと、私にはそうは思えない。
むしろ� ��現実的なのは、【事例3】と【事例4】を対比すること自体が間違いである、という答えを下す理論ではないだろうか。つまり、【事例3】は道徳的判断に関するものだが、【事例4】は道徳的判断に関するものでははない、と判断する理論の方が有用であるように思える。
つまり、【事例4】で寄付をすべきかどうかは、一見道徳的判断の範疇に属することのように思えるが、実は、「道徳」とは何の関係もない課題であると見なすのである。先ほど「道徳的直観が働かない領域における対処法」と書いたが、まさしく【事例4】は「道徳的直観が働かない領域」の課題であるというわけだ。こういった領域でどういう規矩を以て我々は判断すべきか、ということが問題になるわけだが、誤解しないでいただきたいのは、その「対処法」は決して「道徳的な」ものである必要はないということだ。むしろ、個人的には道徳的でない方が望ましいと思っている。
蓋し我々は、あまりにも多くのことを倫理的、道徳的に捉えることに慣れすぎている。そして、本来倫� ��的、道徳的な判断ではないものまで、そうであると誤解しすぎているのではないか。私は、これからの倫理学は、その扱う対象を厳密に定義し、扱う範囲を狭めるべきだと思っている。そしてそれ以外の領域で社会的に価値判断を行わなければならない場合は、それが「政治的判断」に過ぎないことを我々は明確に意識すべきだし、倫理理論はそう明言しなくてはならない。
胚性幹細胞にしろ、中絶の問題にしろ、それを何らかの形で法制度で規制することは、その問題に対して道徳的判断を下したわけではないし、その判断が社会全体の構成員で共有されているということでもない。ただ、政治的に決着しただけの話ではないだろうか。
しかしながら、「道徳的直観の及ばない範囲では、政治的判断に任せましょう」というだ けでは何の解決にもならない。現代社会とマッチしない我々の道徳的直観を、我々自身がどう調停していくのか、という課題に何も答えていないのだ。だから、私は「道徳的直観が働かない領域における対処法の構築」が必要だと考えるのだ(私は本稿において、後にこの「対処法」について具体的な提案を行う予定である)。
【参考資料】
このブログでは既出であるが、我々の道徳的直観が進化的産物であるということについての研究の現状が総花的に(?)まとめられているのが、マーク・D・ハウザーの「Moral Minds」である。この分野での研究が発展途上であることがいい意味でも悪い意味でも伝わってくる本である。
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